快適な独房──。
僕は今の自宅をそう呼ぶ。
「独房」と云うフレーズを一般杓子で括ると、罪人が刑罰を償うために隔離される場所である。
なぜ、冒頭のように呼ぶかと云うと…
と、草稿段階ではづらづらと綴ったのだが、他人が聞いても共感できるものが少ないと思われるので割愛した。
快適な独房。
そこは拘束のない拘束が支配している。
余計な物は殆ど置かれていない。
思考の逃避先。
そう云った矛先ベクトル──「気休め」の対象物からほぼ遮断されている。
否が応にも思考のベクトルが自身に突き刺さる。ストイックに──そして、結果、鋭利に研ぎ澄まされる。
ただし、某しにも拘束されている訳ではないので如何様にも回避できる。「意思」がすべてを決定できる。
故に、「快適な独房」──と。
思考のランデヴー。
その矛先は自身との禅問答に結び付く。
本来、愛を育む場所であった。
その矛先を失った今となっては──。
目的・目標。
それらを掲げることの虚しさがぼんやりと滲み渡る。
そして、本来、そんなものは何処にもない、と云う「理不尽・不条理の頂点」──「真理」に到達する。
僕が悲哀の濃度を高めるのは必然。
それは快適な独房で快適に拘束されているからだ。
それをシニカルに嗤う自身を愛でる。
そして、静かに罪を購う。