期待とは期を待つ忍耐である。
故に、他者に与えるプレッシャーであってはならない。
だが、哀しいかな人は、これを以て他者を拘束しようと考え、また、拘束できると信じている節がある。
故に、その対極が露見・展開された場合、「裏切られた」などという被害意識を、その他者や状況に向けたりするのだ。
非常に残念ではあるが、激しい勘違いだ。
期待とは一方的な恣意だ。
好意的な期待以外は、向けられたほうとしても堪ったものではない。所謂「ありがた迷惑」というやつだ。
或いは、恣意なのだから自由自在に放出しても構わない、と云えるかも知れない。
だからこそ、そのようなベクトルが縦横無尽に交錯しているのだろう。
そう考えると、期待とは自身の制御の与り知らぬところで奔放に展開される、ということだ。
様々な期待で雁字絡めに拘束された世界。
やはり、そのベクトルは己に向けるべきなのだろう。
つまり、
期待とは期を待つ忍耐である。
故に、他者に与えるプレッシャーであってはならない。
──ということなのだ。
期は熟す。
他方に呪いを掛けなければ必ず熟す。
期待とは、忍耐の限界を突き抜けた先に横臥しているのだ。