薄紅色の夢雫

「やぁ、君はどう思うか、ちょっと聞いて欲しいんだ」
「あら、何の話?」

ふたりで夕食を摂っていると、彼は出し抜けにそう切り出した。

「ちょっと面白い話を聞いてね。そういうものなのかなぁ、って」
「面白い話? いいわ、聞かせて」

彼女は口許をナプキンで拭うと、彼を見つめた。

「楽しいとか悲しいとかってあるだろ?」
「ええ」

「そんな感情についての話なんだけど」
「どんな話?」

「楽しみを味わうと、またひとつ削れた、って感じて、悲しみを味わうと、またひとつ積まれた、って感じるんだって」
「そうなの?」

「うん。何となく分かる気がするんだよね、そう感じてしまうのが」
「何故なの?」

「それはね。楽しみと悲しみの『量』みたいな話なんだけど、楽しみっていうのは、それぞれが定まった量を最初から持っていて、悲しみっていうのは、最初は誰も持っていなかった気がするんだよ」
「どうしてそう思うの?」

「楽しみっていうのは誰彼に教わらなくても、そう感じられるでしょ?」
「そうね。楽しみに特別な理由はないわ」

「ということは、最初からあったものとして考えられる」
「そうかしら…」

「答え合わせみたいなものだよね。自分の持ち物と照らし合わせてみて、合致したものがあるから反応が表れる、イコール分かる、みたいな」
「そうね。分からなかったら楽しいも何も分からないだろうし」

「でしょ?」
「じゃ、悲しみのほうは?」

「悲しみっていうのは、直面して初めてそのことに触れ、気付いたり、考えたり… そんな感じで、自分の持ち物と照らし合わすことが難しい、というより、最初は悲しみなんて誰も持ち合わせていないから、よく分からないんだと思うんだよ」
「確かにそうかも知れないわね。『知ってから苦悩を知る』みたいな…」

「そう。それって最初、悲しみはなかった、ってことにならないかい?」
「そうね。自分に不利なものは最初は誰も持っていなかったのね」

「そういうこと。だから、削れた、積まれた、ってことに頷けるんだよ」
「面白いわね」

「ただね。この話は、楽しみ悲しみが内包されているか、いないか、の内面説だと云えるよね?」
「そうね」

「勿論、感情の話だから内面説も何も… 当然だと思えるし、説得力もあると思うんだけど…」
「だけど…?」

「客観性に欠ける」
「何故?」

「例えば、楽しそうな人を見て『あの人、ひとつ削れた』とかって思う?」
「それは…」

「反対に、悲しそうな人を見て『あの人、ひとつ積まれたんだ』とか…」
「うん、まぁ、悲しみのほうは何となくそんな気もするけれど…」

「いずれにしても、他人の心の動静は推し量ることしかできない」
「そうね」

「だから、僕はジェンガだと思うんだよ」
「ジェンガ?」

「そう。ジェンガ。知らない?」
「いえ、知ってるわよ。積み上げたタワーを崩さないようにして遊ぶゲームでしょ?」

「そう、ジェンガ」
「何故、ジェンガなの?」

「楽しみの木片を抜き取り、崩さないようにしながら積み上げる。或いは、悲しみの木片を抜き取り、それもまた崩れないようにしながら積み上げる」
「ええ。何となく分かるわ」

「つまりはバランスってことだよね。楽しみも悲しみも内包されているものではなくて与えられたもの。テーブルの上で積み上げたりしてバランスを保つゲームのようなもの。ま、崩れたらおしまいだからね」
「そうね」

「楽しみ悲しみっていうのは、極々、主観的なことなんだけれども、それを客観視すると浮いたり沈んだり… バイオリズムの波形に過ぎないじゃない?」
「まぁ、客観視すると、そういうことになるわね」

「まぁ、ざっとこんな話なんだけど、君はどう思う?」
「内面説とジェンガ?」

「や、楽しみと悲しみについて」
「わたしは『色』だと思うわ」

「『色』?」
「そう『色』」

「ああ、何となく分かる気がするなぁ」
「そう?」

「うん。楽しいと『バラ色』とか、悲しいと『セピア色』とか…」
「うふふ、そうね。大体、合ってるわ」

「じゃ、今の君は何色なの?」
「わたし?」

「うん。何色?」
「わたしは…」

そう云うと、彼女は赤ワインの入ったグラスにストローを差し、スポイトのようにして吸わせ、フィンガーボールの中に数滴落とした。

「こんな感じ」

彼女は悪戯っぽく微笑んだ。

「薄紅色…」

彼は洩れ出すように呟いた。

「そう。薄紅色」

しばらく、フィンガーボールの中で揺蕩う薄紅色を見つめ、彼は思索を巡らせた。何かを思い出せそうな、否、思い出せない…

「どうかしたの?」
「や、何でもない… ただ…」

「ただ、なぁに?」
「や、それは…」

彼女はフィンガーボールの中にストローを差し、再び、スポイトのようにして吸わせ、それを彼の手の甲に一滴落とした。
瞬間、彼の脳裏に電撃が走った。過去の追憶がフラッシュバックとなって駆け巡った。

「そうか、そういうことか…」
「なぁに? 何がそういうことなの?」

彼は彼女を見つめ微笑んだ。

「薄紅色の夢雫。その正体が分かったんだ」

彼女はストローを持ったままキョトンとしていた。



楽しみの枯渇と悲しみの堆積。
愉悦と悲哀のジェンガ。
それらをたった一滴で覆す薄紅色の夢雫。

楽しみと悲しみは、それぞれがそれぞれのメタファーなのかも知れない。

___ spelt by vincent.