- 優由和憂 ゆうゆわゆう
- [四字造語]
優しい・優れている由(よし)理由は、他者の憂いなりを和やかにする、と云う意。
故に、「優しいのは当然である」と続く。
他者に対して優しく接するのは、ひいては自身の為であるからだ、と。
「優しさとは残酷さの裏返し」とは、誰かが云ったんだか云わなかったんだか…
表層とコア、コアと表層。
その関係は常にギリギリの均衡でそのセグメント、ボーダー、境界を保っているだけに過ぎない。
その境界はいとも容易く翻り、驚くほど簡単に枠組みから外れる。
要するに「差別視」である。
「定義」→「迫害」→「排斥」の流れ。
「博愛」以外の「愛」は「差別」である。
vincent.マイナス要素のいち根幹──テーゼのひとつであるが、ひとりの者を独善的に愛そうとする行為。これが即ち「差別の根幹である」と云っているのだ。
このテーゼに対して、各個人が「そんなことない」と払拭しようにも、否が応にも思い当たるフシがあることを否めない筈だ。
人間は小狡くて小賢しいものだ。
博愛に勝る愛は「母性愛」に他ならない。彼女らは理屈抜きで子を愛でる。
穿った見方をすれば、それも差別に類するかも知れないが、決定的に違うのは他者を不愉快にさせない、と云う一点。この違いは大きい。他に比較の対象を見出せない。
母性愛に対する「父性愛」が挙げられるが、彼らの愛は受精した時点でその目的を全うする。つまり、継続性・持続性とは無縁である、と云うこと。
百獣の王と呼ばれるライオン。彼らの生態からもそれを窺い知ることができる。
狩りをするのは雌の仕事だ。雄は何もせず、ふんぞり返っているだけである。それでも立派な鬣を靡かせ、偉そうにしている。
──何とも滑稽だ。
すべての男は消耗品である、とは村上龍の言葉、著作であるが、中島らもの「男性無用論」もなかなかに面白い。
彼の持論はなかなかに共感する部分が多い。と云うより、僕と殆ど同じことを云っている──ように感じる。
奇しくも、僕が頭蓋骨骨折した、その直後、彼もまた僕と同様に階段から転落した。彼の場合、脳挫傷で絶命したが、泥酔・酩酊状態だったそうだ。そんなところまで酷似している。苦笑
そこから比較論を展開すると… と、蛇足になるので割愛する。
選ばれた人間などひとりも居ないのだ。それでも某かを見出そうとするのは──自己中心的でない人間など、この世に居ないからだ。
男性無用論の主旨とは次のような雰囲気だ。
人間の雄は18くらいで皆死ぬべきではないか? 何故なら、生物としての役割は遺伝子を子孫に受け渡す、と云うことで終えてしまっているからである。
──斬り込み方が鋭角だ。
「役割を終えたら死ね」と、そう云うことだ。なかなかに頷ける。僕もそんな風に感じる。
この持論は他の生物にも多くの手本を見出すことができる。例えば、カマキリ。彼らはとても潔い。
カマキリの雄は交尾を終えたあと、雌の栄養分として喰われてしまう。「喰ってんだか喰われてんだか…」余計なことはさておき… 一生に一度っきりのセックスである。
──何とも甘美だ。
この話は結構有名なので既知だったが、チョウチンアンコウ。彼らの話は初耳だったので挙げておく。
長い間、チョウチンアンコウには雌しか居ない、と考えられていた。それは漁師の網に掛かるのが雌ばかりだったからなのだが、後の調査で驚くべき事実が分かったのだ。
雌よりも何十倍も体の小さい雄は、受精が終わると雌の体に張り付き、そのうち体を同化させてしまう、と云うのだ。
溶け入って、あなたとひとつになりたい…
あなたに取り込まれたいの…
などと感じを出すまでもなく一心同体とは、まさしくこのことだ。或いは、我々の願望のひとつである「胎内回帰願望」を別の形で満たしている、と云えるかも知れない。
「優由和憂」から、ここまで脱線するとは思ってもみなかったが…w
僕は台本通りに科白を云っているだけだ。
否、脳内経典を写経しているだけだ。
優由和憂。
願わくば、あなたの脳内経典にも是非付け加えられたし。
「優しいけれど、コワイお方…☆ イヤン♪」
そんな感じで♪
コメント (2)
誤解を与え兼ねない表現があるので、少し補足しておく。
このスペルで「差別」と云う言葉を用いているが、これは、所謂、一般通念における「差別」とは似て非なるものである、と云うことをお断りさせていただきたい。
僕が思うに、一般通念における「差別」と云う概念には、どうも「優劣」に対する「比較論」ばかりが挙げられているだけだ、と、そんな風に感じられてやまない。
多分、「差」と云う文字の意味合いから、そう云った「格差」なりを見出すのだろうが… 分かり易く「区別」と云う言葉を遣えば良いのか…
或いは「分別」…
いずれにしても、分けていることには変わらない。
「分ける」と云う行為に綺麗事もへったくれもない。
少し考えれば誰にでも分かることだと思う。
「分ける」と云うことは、なにがしかを「定義」したとき、「多数決の理」に依って「常識」を「基準値」に祭り上げ、その基準値から反する「異物」を「迫害」し、「排斥」することだ。
大袈裟な言い回しで綴ったが、僕は生来、大袈裟好きなのだ。
「ひとりジェットコースター」の所以である。
故に、強烈な文言として捉えるであろう文言を、敢えてピックアップして叩き紡いでいるに過ぎない。
要は、普段、使わない脳細胞を酷使せよ、と。
故に、その言葉っ尻に対して立腹する向きと云うのは… 悪いが、僕の思うツボ、と云うことだw
脳内エピキュリズムとは、自我の反芻である。
他我の思惑などは、根底、元来、無関係なのだ。
僕は僕の為に駄文を垂れ流し、綴り連ねる。
それでも弁明とも取れぬこの文章を書き綴るに至らしむるのは、僕が「優由和憂」だからだ。。☆
あれ? ちゃんと言い訳できてるかしら?w ごめんなさいね。お赦されて♪
愉しんぢゃうべき☆ ねー
排斥の至るまでのルートを「差別」としたが、それに至る思考回路は「偏見」である。
「相対的」とは、「絶対的」の対極であり、「主観・客観」の立場とよく似ている。
1ベクトルから発する1絶対的思考。
それが「偏見」である。
凡そ、独断と偏見を以て、思考は構築されるものだ。
「興味」の矛先で捉えれば、興味の無いものは「排斥」され、興味のあるものだけ「優遇」される。
自己中心的でない人にお会いしたいものだ。
一体、何処に隠れているのだろうか?
ただ、思想は如何なるものでも拘束することはできない。
キャパシティと云う要素が最後の砦なのかも知れない。