何故、僕が「煩い」と云うのか。
それは、何処から来て、何処へ行くのかも知らないくせに、あれこれ他人を干渉するからだ。
人は、何者にも縛られない、高潔なものなのだから、すべてを赦し、分かち合い給え。
自分に理解できないものを受け入れることで、見えなかったものが透けてくる。
解など要らぬ。感だけで良い。
何様のつもりだ、と云う問いを、他人ではなく、自身に向けてみよ。
そうすることで本質が浮き彫りにされる。
人間とは、死ぬまで生きているだけの、何も司ることができぬ、何の使命も帯びぬ、ただの肉塊──土塊に過ぎない。
塵、芥と何ら変わらぬ、果敢ない存在なのだから。
生まれて来たことが既に結果なのだ。
そう捉えることができたのならば、不思議と重荷が和らぎ、弛緩する。
無理な力が肩から抜け落ち、雁字搦めの重圧感から解放され、本当の、安寧と云う名のカタルシスを得ることができる。
自分に理解できないものを受け入れることで、見えなかったものが透けてくる。
解など要らぬ。感だけで良い。
我が魂の命ずるままに──。
コメント (1)
「あなた次第」とは、こう云うことだ。
他人の意思決定に委ねられた自身の信条など、
何の重みもない。
また、何も動かせないし、動かない。
自身を動かす根幹が他力本願なのだから、
必然、音もなく消失する。
嗚呼、安らいだ気分だ。
ありがとう。