気付いたのは自らのポテンシャル。
元々、宿っていたものに気付いただけ──。
自身の過去日記などを反芻し、あれこれと思考を巡らせ「いい男だよ」と云われた意味がやっと分かった。
なるほど、十分にいい男だ。
それが右往左往したり、非道く狼狽したりするのは自身の「短気」に因るところが多い。
頭の回転が速いのではない。
単純に「早合点」。
分からないことを分かろうとするのは「傲慢」の元凶。自らの「傲慢」は須く自らで諫めるべきだ。
分からないことを分かろうとしてはいけないのだ。すべてに「答え」があると思うのは「期待」。
期待するから失望する。
そもそも望みを絶する。「絶望」を据えると、不思議と安らいだ気分になる。
例えば「恋愛問題」などで仮定してみる。
こちらがAだから あちらはBだ
ここで既に強烈な「期待」が窺える。
AだからBである──と云う「期待」。
そして「こちら」の思惑での「傲慢」も。
AだからBであるはずだ
──これが「傲慢」。故に、あちらが「C」を出してきたときに狼狽する。
こちらがAなのに あちらはCだ
何故、Bではない? 信じられない…
ただし、この辺りは自身の範疇内・既知内。
多分「G」くらいまでは対応できるだろう。
ま、平たく「ナンパ」のレベル。苦笑
よく耳にする恋愛話の多くは、この辺りでウロウロしているように感じる。
「アイツ、ムカつくんですよぉ。俺がこーしてんのにあーなんて… ったく、信じられますぅ!?」
「あのね、彼氏ったらね。アタシが折角こーしてるのにあーなの。なんでだろ…?」
あっそぉ☆ 「だから」なんじゃなぁーい?
ここで「絶望」を据えられるのは余程のことだろう。逆に、ここで据えられるのならば、そもそもオイラなんぞに相談もせん。苦笑
厄介なのは…
こちらがAで あちらがAだ
と云う場合──。
これは上述の例に当てはめると、双方同じ値のように見えるが、本質からまるで違う。
まず、こちらのA──ここに「だから」と云う「理由」を挙げていない。
AだからA
とは云っていない。
つまり「期待」は廃されている訳だ。
期待込みの上述の例に倣うと…
こちらがAだから あちらはAだ
となるが、日本語として既に崩壊している。
こちらがAだから あちらもAだ
とすべきだろう。
ともすると、ここで「相思相愛」と云う「早合点」に陥る。
「やぁ☆ 僕がこーだから君もこーなんだね? 気が合うなぁー♪」
「うふふ♪ アタシがあーだからあなたもあーなのね? 嬉しいー☆」
ま、この辺りでまとまってくれれば、恋愛相談の相手も早々に早退できる。苦笑
「良かったねぃ☆ テキトーにお幸せに♪」
しかし、厄介とした例は、
こちらがAで あちらがAだ
となっており、お互いに「自立」しているのだ。
「こちらのA」は「あちらのA」に「依って」いない。
「あちらのA」は「こちらのA」に「依って」いない。
飽くまで、こちらのAとあちらのA。
見る向きによれば「孤立」とも取れる。
この厄介とした例の状態は…
ただ 双方共にAである
と客観的に表現しているだけなのだ。
ここで「絶望」を据えてみる。
互いに孤立しているAはそもそも「孤高」だ。
共に「A」と云う同じ値を据えたのは、そこに至るプロセスや内容・本質に差異はあれど「孤高である」と云う共通項で括っている理由からだ。
何ものにも依っていない=孤高
補足すると…
数学上の「相似」は実質、有り得ない。国語的に「相似つかわしい」と云う意味合いのほうが強いだろう。
ともすると「似つかわしい・似ている」と云う表現に引っ掛かる向きもあれば、この「厄介だ」とされる例そのものが成立しない訳だが…
「自立・孤立・孤高」。
──突き詰めると「ナルシズム」。
この話をせんがための布石であることを断っておきたい。
互いのナルシズムが対峙したとき、互いが互いに依ることなく、強烈に惹き合う。否が応でも惹かれ合う。
自然と一緒に過ごす時間が長くなる。
うまく回転しているときは良いのだが、ひとたび、回転が止まり行き詰まると…
いずれかが他方の「ペースに合わせる」ことに不満を覚え、いずれかが「他方を制御すること」を望む。
そこで「軋轢」が生じ、均衡が崩れる。
この場合「いずれかのペース」が勝り「他方のペース」が崩れる。一時的にではあれ「いずれか」の「支配下」に「他方」が組み敷かれることとなる。
それが継続すると、当然「他方のA」が浮上する。
「何やってるんだろ…?」
そのプロセスが「自己嫌悪」──スライドして「他方」は「本来のA」を再認識する。
その結果「他方」が採る方法は「他方のA」に依って様々だ。
ここに「絶望」を据えるのだ。
この場合「いずれか」に「絶望」を据える。
「他方」の採る方法に何らの「期待」も抱かず、望みを絶ち、平伏す。跪く──「すべて受け入れる」の「潔」も含む。
最初に均衡を崩したのは「いずれか」だ。
そもそも、お互いに「A」なのだから「他方の制御」は不要だ。互いが「自身を制御」しているのだから、そもそも不要なのだ。
ならば、何故、そのような「愚行」が発生するのか?
それは「いずれか」が自身の「A」に某かの「虚飾」を纏ったからだ。或いは「纏おうとした」──値を云うなれば「A’」。
「いずれか」が自分自身にも「欲望」を乗せたことになる。これが原因で「いずれか」に「慢心」や「傲慢」が生まれる。それが「他方を制御することを望む」と云うことへスライドするのだ。
「いずれか」は、自身の「慢心」や「傲慢」を「満足」させるため「毒」などの「他方の未知なる方法」を用いたりする。
「A’」の「’」にはこの部分も含まれる。
やがて、その「愚行」に気付いた「いずれか」は激しく「自己嫌悪」し、スライドして自身の「A」を再認識する。
「何てことを… あぁ…」
その結果、某かの方法を選択する。
「自身の愚行」に「自己嫌悪」した「いずれか」は、ここで「絶望」を選択した。
これは「他方のA」を認めるが故の選択。
同時に「他方のA」を愛している、と云う「証明」。
ひいては「他方」の存在そのものを愛している、と云う「いずれか」の「本来のA」の「証明」でもある。
「互いの存在の肯定」
これが「ナルシズムの極致」──。
気付いたのは自らのポテンシャル。
元々、宿っていたものに気付いただけ──。
そもそも望みを絶する。「絶望」を据えると、不思議と安らいだ気分なる。
なるほど、十分にいい男だ。