特定個人に対して攻撃的でいられる人間は、ものすごく器の小さい人間だと感じる。
元々、器など持たない俺はダラダラと垂れ流し状態でみっともない訳だが。
良いとこでもあり悪いとこでもあり諸刃の剣だ。
怒りの矛先は自身の内面に向けるべきだ。他人を制御しようなどとおこがましいことは考えるだけ無駄だ。
何でも自分の思い通りに事が運ぶとするならば、そもそも「苦悩」や「成長」は有り得ない。
何故、苦悩や成長があるのか?
「生きる」ということが、そもそも不完全なのだ。
不完全だからこそ、抗う、藻掻く、苦しむ。
その結果「成長」という「報償」がある。
報償は字面通り、与えた損害に対する償いだ。
自分の望ましい成長が得られないからこそ、再び、抗う、藻掻く、苦しむ──その繰り返し。
「生きる」とは、そもそも不完全なもの。
不完全なもの同士が犇めき合っている以上、どうしても問題が発生する。
その問題が自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、すべて潔く受け入れるべきだ。
望まない事態に陥ったり、望まない窮地に立たされたりするのは己の「不完全さ」を思い知るための試練。
だから、怒りは自身の内面に向けるべきだ。
ちっぽけな己に憤慨し、睨み付ける。
そうすることによって、自ずと自身のスタンスとベクトルが見えてくるはずだ。
そして、自身の望むポジションを目指す。
──それが「最大の我が儘」。
そんなことを ふと思った
「苦悩」は自分のもの。
「成長」は「評価」。他人のもの。
俺が苦悩を余り相談したがらないのは、自分の呪いの言葉で他人を巻き込みたくないから。意固地で偏屈な男である原因だ。
ただ、他人の苦悩には耳を傾けたい。
成長を評価としたのは「俺って成長したよなぁ~」などと自画自賛に酔いしれないための楔。
そういうことを臆面もなく、いけしゃあしゃあと曰うボンクラにはなりたくない。
「まぁ、成長しろよ(苦笑」(苦笑
成長の結果、得られるものを「報償」としたのは、自分の我が儘を通すためには必ず他人に迷惑が掛かる。その与えた損害に対する償いが必ず付帯する、と云いたいからだ。
償いといっても、ごめんなさい、ではない。ありがとう、のほうでいたい。
「ありがとう」とは「有り難う」だ。
有り難い。
つまり、有り得ない→存在し得ない。
それほどのことを…有り得ないことを…自分のために他人が「自己犠牲」してくれたのだ。
それが転じて、感謝の意を表す表現になった、というのは日本語の美しさを感じずにはいられない。
「ありがとう」──いい言葉だ。
照れずに云いたい言葉のひとつだ。