祥伝社
売り上げランキング: 26914
曇りなき目で
私の人生を変えた一冊
第三者にとって非常に入り込みやすい
第二バチカン公会議の教えを攻撃する危険な著作家
遠藤周作の著作は今回が初の拝読と云うことになる。難しい文体ではなく、読み易く噛み砕かれていた。
間違ったキリスト教観。と云うより宗教教義について誤解があることを提示されていたが、思うにすべての宗教教義には「誤解」が付き物だ。
真理とは、その当人が感ずる真理が真理であって、普遍的な何人たりともに当て嵌まるような絶対的真理と云うものは恐らく存在しない。
愛を説くキリスト。
彼が生前、無理解者に囲まれ、裏切りに遇い、非業の死を遂げたことに重なる部分があった。
そして、彼の説く愛と僕の感じている愛に非常に近似値を覚えたのも事実だ。やはり、感受性豊かな人には見えるのだろうか。
彼は所謂「奇跡」と呼ばれる「事実」はひとつも行っていない。「真実」と「事実」の違いを知ったような気がする。
僕は彼ほど被虐的では居られないので、何処までも「赦す」と云うことは、到底、無理だろう。
穿った云い方をすれば、彼もまた神に縋り、そして、見棄てられ、魂の器を失ったひとり──我々と何ら変わらない一個の人間だ。
ただ、改めて自身の抱く「宗教心」と云うものに何かが加わったような気がする。
遠藤氏は「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は同一ではない、と云う。
詳細な教義にまでは及んでいないが、旧約聖書の神は世俗的であり、地域密着型のような気がした。この神は謀反者を厳しく罰し、逆らった者を容赦しない。要は「救わない」と云うこと。
対する新約聖書の神は敵をも愛し、これを赦す。ただ、「赦しを請えば」と云う「暗黙の条件」が見受けられた。旧でも新でも根底での差異は殆どない。
やはり、どちらの神も完璧ではない。神ですら完璧ではないのだから我々が完璧を欲することがどれほど愚かしいことか…
そんなことを痛烈に感じる。
故に僕は縋らない。自身の生きた「教義」が僕のすべてだ。そして、それは魂の器が滅却されれば、その時点で潰える。
我が魂の命ずるままに──。
このマントラに拍車が掛かった。キリストが孤独に苛まれたまま哀しみの淵で処刑されたように、僕も僕の愛を胸に抱いたまま朽ち果てるだけだ。
僕の云う「マイナスの美学」の中には、心のデス・ノートに記名した名前をひとつひとつ消してゆく、と云う作業が含まれている。
願わくば、朽ち果てるまでに完遂したい。
コメント (2)
「預言者」と云う言い回し。これはノストラダムスのような「予言者」とは違う。「銀行預金」などと同義である「預ける」と云う意味だ。
平たく「神の言葉を預かった者」と云うことだ。
本来、そんなものは実存しない。神など居ないのだから何かを云ったり預けたりすることが出来る筈がない。
「預かった気になっている者」と云うのが「事実」であろう。
この世界観が「事実」「現実」と呼ばれている、我々が「生活」している3Dの世界観のことである。
対する「真実」とは?
この世界観は個々の魂に依ってその様相が様々に異なる。
所謂「空想の世界観」だからだ。事実世界を司る「根拠」や「動機」と云った「理由」、その基準となる「基準値」、それを以て判断すると云う「材料」など。
それら総てのものが悉くない。
「いやぁ〜神が降りてきた。辛くもピンチを脱したぜぃ」
これが、その「真実」の一側面だ。
事実、神は降りてきては居ない。ピンチを脱することができたのは当人がなにがしかの回避策を以て脱したからだ。
事実とはそう云った無味乾燥な世界観だ。
対する、真実の世界観はそれこそ縦横無尽である。そもそも三次元ベクトルの法則は通用しない。何の拘束もなく、何の束縛もなく、自由に飛び回っている。
この自由な世界観に、何らかの「拠り所」「基準値」を設けること。それが「宗教心」だと感じる。
故に、絶対的な教えなどこの世にないのだ。この辺りは仏教のほうが強いと思う。
まぁま、縋っても救われないねぇ〜(´∀`*)y-〜♪
僕が云いたいのは、
その個々が掲げる自由な「真実の世界観」を自身が抱く「真実の世界観」と照らし合わせ、取捨選択や四捨五入や廃藩置県を行わず、自以外の、その他の「真実の世界観」を受け入れよ、と。
それが僕の説く「愛」だ。
云うなれば、、
強烈な独断と偏見をお互いに喰い合う、呑み合う。
と云うことだ。
故に、矛先のない僕は稀釈して方々に愛を振りまく。
他人の笑顔は心地好い。。☆
ただ、逆賊には容赦せず鉄槌を下す。でないと「現実世界」で生きづらいからだ。
キリストやガンジーやナイチンゲール。彼ら「非力な人間の代表格」のような生き方は到底出来ない。
それが出来た彼らを僕は「尊敬」することは出来ない。が、僕は「畏敬」と云う言葉を遣う。
同時に、自身の魂に殉じる「魂の殉教者」としての共感を覚える。
スーパー・ナルシズムだ☆