無知の特権

無知の特権としては、幸福すら定義できないことにあるが、そうでない者の云う「無知は幸福」とでは些か主旨が違う。

幸福とは、無知でない者の云う無知とは違った領域で──例えば、経験則なりで得た邪魔くさい知見なりを、すべて跳ね除けるだけの破壊力を備えているからだ。

無知≒情報弱者だとすると、情報弱者が幸福なのか、という問いと同等であると考えられるからだ。

要するに、無知は幸福ではない、ということ。

知らなかったがために、享受でき得た待遇なり境遇なり機会なりをみすみす逃してしまう、といったケースは十分にあり得る。

「無知は罪」という言葉もあるくらいだ。私見としては、罪ではなく「罰」のような気がしてならないが、さておき…

知的好奇心の剥離は、知的生産活動の大いなる妨げとなる。無論、対象の興味にも左右されるだろうが、その有無に依存した言及ではない。

知的好奇心そのものをなくしてしまっては、知的生産活動の前に生命活動を維持できないだろう、と云っているだけだ。

知的欲求を満たせないジレンマは、周囲に理解者がいないこと以上に辛い。

周囲の無理解者というものは、そもそもお互い様ということを知り得ておれば、ある程度、解消される問題であって、そのこと自体、責任の所在は何処にもない。

生存する以上、常に付きまとう問題であって誰の所為でもないのだが、敢えて原因を挙げるとするならば、自身の存在が原因である、と云える。

知的好奇心とは、未知に対する姿勢のひとつである。

知らないことを知ろうとするか否か。また、知らないことを知らないままで済まそうとするか否か──ここに共感を持てないような間柄同士が、何かを営もうとしても徒労に終わるケースが殆んどだと感じるのだ。


知的好奇心とは、人類の叡智に挑むような壮大なものから、日常に埋もれて誰も気にしないような些末なものまで、ありとあらゆるケースが考えられる。

或いは、日常的に直面する未知。仕事上で目にする複雑怪奇なスパゲッティソースや、エレガント過ぎて逆に何をやっているんだか分からないコードなど、所謂「日常的な未知との遭遇」なども挙がる。

これらの未知は解明せねば前へ進めなかったり、と業務に差し障りがあるので興味の有無を問わず取り組まねばならない訳だが、それはそれで茨の道であったりもする。さておき…

壮大なロマンには興味は持てるが、知り得たところで誰得情報? というような類いには食指が動かないケースというのは、極々、自然と耳にする。文字通り、誰も得をしないからだ。


果たして、得を得ることだけが正義なのだろうか? 何だか、得という字が得意満面に続いているが… 得得切符! 何のやねん! さておき…

得というのは、何も金銭的に有利であること以外にも有り得ることだと考えられる。

「マジか? 知らなかったよ。やぁ、教えてくれてありがとう」

このような感謝の念は何処から生まれるのだろうか? 無論、知ったところで即金百万円を手にした訳ではない。

この辺りが、僕の云いたい「知的好奇心」の根幹である。特に、無駄だと思える、思われやすい雑多な情報を知る喜びのことを差している訳だ。それを「喜び」と捉えられるか否か──。


無知の特権とは、その喜びを知らないがために無駄な悩みを抱えない、ということだ。

あなたはどちらを選ぶ?
ま、無知は望んだ時点で得られないが…

そんな感じで♪

*2017.07.22・草稿

___ spelt by vincent.