義務と権利について、精神衛生上の基盤として的確に配置すると、重く垂れ込めた暗雲が一気に晴れ渡るような爽快感を味わえることがある。
「義務と権利考」──である。
「義務」というと、「義務感に駆られて」などが思い浮かび、鬱々としてしまうものだ。
一方、「権利」というと、特に主張することもないのに使わないと何だか勿体ないような錯覚さえ起こしたりする。
法律的には「義務を怠る者は権利を主張できず、権利を主張するなら義務を果たせ」との相互補完を説かれる。
そこで、権利、権利といい気になって浮かれていた部分が諫められ、自身の義務行使についての審議が始まる。やぁ、ゆーほどやってへんかも… 今回は引っ込んどくか…
人権侵害だのプライバシー侵害だの、そんな仰々しいことに義務と権利を登場させる必要はなく、もっと身近なことに目を向けたい。
例えば、一般的には子を育てるのは親の義務だと考えられているが、これを「権利」として据えるとどうだろう。
子育ては親の権利
或いは、妻を扶養するのは夫の義務。
妻を扶養するのは夫の権利
何だか爽快感が生まれないだろうか?
一事が万事。義務として捉えられていた事柄をすべて「権利」で置き換えてみるのだ。すると、万物の覇者感、無双感満載になるから何とも不思議だ。
義務とは陰の要素、権利とは陽の要素として捉えられて久しい。長年刷り込まれたそれを無理に逆転させることは些か骨が折れる。ならば、そのまま入れ替えてしまえ──という横着な発想がこの爽快感を生み出す秘訣だ。
嫌々ながら、押し付けられて我慢しながらやってきたこと、やらされてきたこと。それらすべてが喜びに変わり、丸儲け的な気分と共に誇らしげな気持ちにすらなるのだ。
義務から権利へ
このリプレースで生まれる爽快感は大きい。
「生まれた」という結果を「生まれた権利」として本質的に捉えられ、根幹的な悩みの類いが殆ど一掃されるだろう。
義務と権利について、精神衛生上の基盤として的確に配置すると、重く垂れ込めた暗雲が一気に晴れ渡るような爽快感を味わえることがある。
このスペルを読み解くのは義務ではない。
あなたの権利だ。
そんな感じで♪
*2017.01.23・草稿