相互理解について思考を深めると、紆余曲折があるものの、ひとつの解に到達する。
それは、高次元での一致と底辺での一致、である。
その解に至るプロセスとして、高次元を「1」、底辺を「1」と仮定してみる。
すると、その間を繋ぐ「98」の領域が浮かび上がる。つまり、高次元でもなく底辺でもない領域、と云うことだ。
それらの領域を踏まえて相互理解と云う「100」を網羅する。
相互理解において、この「98の領域」で誤解が生じるケースが殆どだ。そして、遂には相互理解の一致を見ないまま、ないがしろに切って棄てられる。「理解は通過点」と知りつつも、その通過点すら通過できないのが通例なのだ。
1:98:1
この比率を見ると、高次元と底辺の比率は同等であり、且つ、難易度においても同等であることが窺える。つまりは、レアケース、と云うことだ。
相互理解の極致とは、このレアケースを埋める作業に他ならない。難易度同等レベルの両極を内包せねば、その一致を見られないのだ。
98の領域とは、その両極の狭間で揺れ動く「機微」のことだ。極めたいが極め切れず、どちらかに寄せたいが寄せ切れず。何とも歯痒い、思考の足踏みである。
高次元とは形のないものだ。定型フォルムを持たず、煙のように漂い、だが、存在を否定できるものでもない。
故に、真に理解することは困難であり、縦しんば、理解に至ったとしても、それは早合点、錯覚、勘違いであることが多いのだ。
底辺とは、その個における動機、モチベーションだ。物理法則的に捉えるところの「原因」。すべての事象は「原因」を以て「結果」に至らしむる。
原因が分かれば理解に到達する。
相互理解を追い求めるが故に「98の領域」を彷徨い、その切欠である「底辺1」の存在を認め、それを掌握し、その根拠を以て「高次元1」の存在を認め、そこに到達する。「相互理解」と云う「100」を網羅する。
高次元での一致と底辺での一致、である。
その両極での合致を見れば、真の「共感」と云う感情が沸き起こるのだ。
思考の共通項──真の相互理解、である。
■蛇足
このスペルのタイトル、主旨でもある「高次元と底辺」との対比は、単に「高次元・低次元」と「上辺・底辺」とのアナグラム的な掛け合わせである。
要するに、双方の対を丸めて同時にクロスさせただけなのだ。
で、だから何? って疑問が生まれるでしょ?(´∀`*) そーでもない。あっそぉw
僕は「相互理解」と云うひとつの解を導き出すために、汎用的な代入式で説明しようとしただけだ。
「高次元」と云うxと「底辺」と云うyに、某かの具象を嵌めれば、「相互理解」と云うA、即ち、綺麗事風な望むべく解に到達できますよ、と。
A=(xy=xy)
的な。。(´∀`*)
ま、要するに「云いたいだけ」と。
98の領域でウロウロしたい、と(´∀`*)y-〜♪
そんな感じで♪