そして、究極の1993年シリーズ第3弾。
自分の人格がこの時点で形成されていることが窺える文章だ。
齢20にして現在と考えていることが殆ど変わらない。成長がないとも言えるが…
タイトルなし
俺は究極のエゴイストに憧れる。
自らの行動、言動は俺の意思によってのみ左右する。
周囲の環境、反応、干渉がどうであれ最後の決定を下すのは、まぎれもなく自らであると確信するからである。
地上に存在した時点で生命には限りがあると云う事を知っていなければならない。
だからこそ限りある中での存在理由を常に脳裏に焼きつけておかなければならないと思うのだ。
己の意志に共感する者を一番愛しい存在だと思いたい。
異性同性を問わずにである。
己の意志に反感を抱く者は、それはそれで存在を認めたい。
それらもまぎれもなく現存しているからだ。
存在しているものを否定はできない。
眼前に横たわる全てのものは、まぎれもなく事実であり真実であると思う。
汚れたものや腐ったものも全て事実であり本来の姿である。
しかし、それらのものが目に映らない精神的なものを歪ませたり、壊そうとしてきた場合には、それを全力で排除したい。
全て己の為に行動するのだ。
誰かの為、何々の為などと理由をつけて行動することは全て偽善だと思う。
究極は己の為であるからだ。
己の存在理由を知る為に生きているのだと思う。
理解した者は今すぐに死んでも何の不安もないだろう。
これが「悟りの境地」と云うものなのだろうか?
未だ本来のあるべき姿を知らぬ求道者である俺は遠くを見つめながら生きている。
俺は俺で在りたい。
俺は究極のエゴイストで在りたい。
1993.10.16 Keep Silent.