「フンッ。何がそんなに面白いんだか」
カウンターで背中を丸めた男が独り。背後でざわつく他愛もないカップル同士の戯れに毒づく。
「随分、ご機嫌斜めだな」
毒づく男にふらりと細身の優男が近付いた。
「誰だ、手前は?」
「気にするな。ただの酔っ払いさ」
優男はそう云って不敵な笑みを浮かべると、ロックグラス片手に毒づく男の隣りに坐った。男が憮然とする。
「生憎、そう云う趣味はねえんだ」
「フフ。気が早い。僕にも選ぶ権利はある」
「ハッ。そいつはお互い様だよ」
「僕は、できれば麗しい異性が好ましい」
毒づいていた男の口許が緩む。
「フフ。なかなか面白い男だな?」
「君には負けるよ」
「どう云う意味だ?」
「知ってるのに知らないフリ、か」
訝しげに隣りの優男をまじまじと見た。優男は視線を合わせないままグラスに接吻ける。
「俺が何を知ってるって云うんだ?」
「フフ。とぼけるのもうまい」
優男はグラスをコースターの上に置いた。釈然としない面持ちのままそれを眺めている。
「分かり易いように云ってくれるか? それほどオツムの出来は宜しくねえんだ」
「またまた、ご謙遜を」
優男は夢見るように微笑んでいるだけだ。男は煙草の煙をふっと吐いた。
「俺は酒呑みに来てるんだ。なぞなぞやってる閑はねえ」
「ほう。じゃ、思ってることを洗いざらいぶち撒けてみろよ」
「何を?」
「思ってること、だよ」
優男も煙草に火を点けた。ほうと煙を吐くと、オーケストラが始まる前の緊張感にも似た空気がカウンターを締め付けた。
「や、くだらねえことだよ」
痺れを切らしたように男は切り出した。優男の眼が輝く。
「ほら。十分知っている。そう。くだらないことだ、とても」
それを聞いた男の顔に幾ばくかの安堵感が宿った。苦笑を浮かべてから、ゆっくりと演奏を始める。
「や、俺は男だ、わたしは女だ、とかな? 何だか住んでる世界が違うだの何だの… まぁ、訳の分からんことで、くっついたり離れたりそんなことを飽きもせず、ようやってるだろ?」
「ああ、そうだな」
「そんながな。何だか馬鹿らしくなってな…」
「そうか。で?」
「や、特に続きはねえんだけど… つまらんな、と」
男はごついロックグラスをちびりと舐めた。
「フフ。続きも知ってるクセに。愉快な人だ」
優男もロックグラスに接吻けた。
「代わりに云ってやろうか? 君が思ってることを」
「ん? ああ、頼むぜ。よう顎回らん…」
「フフ。ご謙遜プラス臆病と来たか」
「何だと!?」
「まぁま、そう目くじら立てるなよ」
「頼むぜ。カルシウム不足なんだ…」
優男がロックグラスを置いた。男の眼をじっと見詰めると、突然、声色を変えて喋り出した。
「男と女なんてのはな。互いに肉欲貪り合ってりゃいいんだよ。精神だとか魂だとか奥歯が浮き上がるような、そんなスピリチュアルな世界じゃ生きちゃねえのさ。ったく。とんだ知ったかぶりが多くて反吐が出るぜっ──」
優男が矢継ぎ早に捲し立てると、男が眼を白黒とさせた。周りの客も異変に気付き、にわかにざわついた。
「ど… どうしたんだ、一体?」
優男は待ってくれ、と手で制しながらロックグラスに接吻けた。
「や、落ち着いた」
「大丈夫か? どっから声出したんだ?」
「フフ。まぁ、それは。ただ、相変わらず人の心はキツイ…」
「相変わらずって… 手前、何者なんだ?」
優男が横目でちらりと一瞥した。
「心読み、だよ」
「心読み?」
「ああ。知らないのかい?」
「そんな、妖怪か化け物みたいな…」
「化け物? フッ、どっちが化け物なんだか」
心読みが呆れたように首を横に振る。
「君らにゃかなわんよ。知らないフリでやり過ごそうとする」
男は穴が空いたように心読みを見詰める。
「僕は君の心の声を拾って読み上げただけさ。周りの連中の声も僕にはすべて聴こえる」
男は猜疑心の塊のような眼で心読みを見詰めるばかりだ。
「そんなことが…」
「有り得ない? じゃ、僕の云ったことは少しも思ってない?」
「や、そうじゃねえが……」
「図星、だろ?」
男は居心地悪そうに黙り込んでしまった。心読みが続ける。
「君は間違っちゃいない。男や女など… 君の云う通り。彼らはそんな世界では生きていない」
「手前もそう思うのか?」
「思う、じゃなく、事実だ」
「そうなのか?」
「ああ。君らはそれに気付かないで錯覚しているだけさ」
「錯覚?」
「そう。平たく勘違いさ」
男が複雑な表情を浮かべた。
「君はそれを知っている。知っているのに知らないフリとはそう云うこと」
「や、そう云われると元も子もねえな…」
「そう。それも正解。元々、元も子もないよ」
「そんな身も蓋もない…」
心読みが笑い出した。
「君は本当に愉快な人だ。次から次へと正解ばかり。何故、今まで知らないフリを?」
心読みが悪戯っぽく覗き込む。男はバツの悪そうな顔で眉を顰めた。
「や、知らないフリも何も… 頭おかしんじゃねえかと思われるのもな…」
「フフ。やはり、臆病だ」
心読みが微笑む。微笑みながらロックグラスを傾ける。不意に男に向き直って、
「君は、世界は誰のものだと──?」
と訊いた。虚を突かれた男が口籠る。
「や、誰のものかなんて。そんなことは知らねえよ…」
「君は嘘が下手だね」
「見える、のか?」
「当然。僕は心読みなんだぜ?」
「そうだったな…」
男は屈服したように笑ったが、その笑顔に負け惜しみの色はなかった。
「今度は俺に喋らせろよ」
「どうぞどうぞ」
男は潔く観念したように微笑むと、ゆっくりと喋り出した。
「俺は気付かないうちに生まれて来た。や、正確には気付いたら生まれていた」
心読みは愉快そうに、うんうんと頷く。
「だから、生まれてきた理由や意味なんて、何処にもハナから何もねえんだ」
「そうだね。最初から何もない」
「知らないことも多いのは確かだが、知ってることもそれなりにはある」
「知らないフリも飽きたのかい?」
「フフ。手前のさっきの質問。俺には答えられるぜ?」
「それは?」
「世界は俺のものだ──」
心読みが拍手を送った。
彼の眼の前で起きていること。彼の眼の届かぬ所で起きていること。それらすべて、彼の存在なくしては語れない。彼が存在していなくては彼はそれらを知る由もない。
そう、世界はまさしく「彼」のもの。
気付かぬうちに押し付けられた「有限の生」に感謝し、静寂がそれを封じ込める瞬間刹那まで──。
我が魂の命ずるままに──。