人生とは、無為を渇望する空虚な刹那を彷徨う過程。
やがて、その真理に到達し得ぬまま、その過程の幕を閉じる。静かに、或いは、ひっそりと──。
故に、人とは脆く儚く絶望的に哀れなのだ。
救い難いほどに救われない存在。
故に、足掻く、藻掻く、苦しむ、悩む──。
意識世界が侭成るうちは望もうが望むまいが悉く継続される。
無為を渇望する必然。
ないからこそ掲げられる至高の理想形。
それが我々の意識世界を巣食っている自然の摂理。宇宙の法則。
わたしは、大いなる自然の摂理、宇宙の法則をねじ曲げてでも、
地涯て、海枯れるまで、
あなたを想う──。
魂器必滅の必然を噛み締めつつ、
我が魂の命ずるままに──。
- むい─ゐ 1【無為】
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- (名・形動)[文] ナリ
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- あるがままにして作為しない・こと(さま)。ぶい。
「─渾沌 (こんとん) にして人事少なき世に在 (あり) ては/文明論之概略(諭吉)」
→無為自然 - 何もせずぶらぶらしている・こと(さま)。
「─徒食」「─無策」「毎日を─に過ごす」「─な日常生活」 - 〔仏〕 因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。
すなわち、涅槃 (ねはん) ・真如 (しんによ) といった仏教の絶対的真理のこと。
無為法。ぶい。⇔有為 (うい)
- あるがままにして作為しない・こと(さま)。ぶい。
- ──にして化 (か) す
- 〔老子〕聖人の偉大な徳は、特に教育をほどこさなくても自然に人民を教化する。
僕が綴った「無為」とは辞書が定義するところの 3. に相当している。
現実社会を営んでいく上で因果関係を含まない事象は皆無と云っても過言ではない。常に某かの原因と某かの結果で彩られている。
ともすると、「色即是空、空即是色」などと云うマントラは机上の空論とも捉えられ兼ねない。
そう捉える向きはそれで良いと感じる。
すべての事象に原因結果が付きまとうのだとしたら、どうして「何故、生まれたのか」と云う疑問に答えられないのか?
間接的な原因としては父母の交わりが挙げられるが、それも表層の一部分だ、と云える。決して「根幹」では有り得ない。
父母に同じ質問をしてみると分かるだろう。「あなたがたは何故、生まれたの?」と。適当にお茶を濁すに違いない。
身も蓋もない事実を述べると、「気付かぬうちに生まれていた」或いは、「気付いたら生きていた」
ただ、それだけのこと。
ここに「不可思議」と云う概念が成立する。原因・答えを知らないから答えられないのではない。原因・答えがないから答える必要がないのだ。
故に「無為」と云う絶対的真理が成立する。
因果応報を超越したところに真のカタルシスが存在する。それは輪廻転生すら撥ね除ける絶対的価値観。
僕は、ここに「渇望」を据える。