「威風堂々」とは何か?
ふと、そんなことが頭をよぎった。「後ろめたさ」を微塵も感じない人間が果たしているのだろうか?
これには「法を犯す」など大袈裟でないものも含め「私はまったくもって清廉潔白である」と云い切れる人間がいるのかどうか、と云うクエスチョンに他ならない。
その人の過去の犯罪歴などは論ずるに値せず、所謂「色眼鏡」でその人を判断する向きの傾向もあながち間違ってはいないと感じるが、自分は自分に対しての接し方で、その「人となり」を判断する。
世間的に見れば「えぇ〜? 信じらんな〜い」と云うような人間でも、自分にとっては「目の前にいる人間」が、自分にとっての「関わりのある人間」だ。世間の吹聴やら煽動やらに信憑性の高さを委ねるほど判断力は鈍くないつもりだ。
眼前に対峙する人間が紛れもなく実体。
誇大表現はJAROに訴えられそうだが、そんな感じだろうか。
「眼前」とは、現実的に目の前にいる状態は勿論のこと、精神レベルでの「眼前」も含まれている。
瞳を閉じて 浮かびくる
手を伸ばせば 届くよな
だのに だのに それなのに…
あなたはわたしの 目の前にはいない…
そんな感じも含まれる、と云うことだ。
前置きはこの辺りで…
「後ろめたさ」を感じる最大の要因は「嘘」にあると感じる。これは、相手に対するいやらしいものであったり、自分を守るための苦しいものであったり、それぞれいろいろが含まれる。
その中で「最大の嘘」は「自分自身に対する嘘」だと痛感する。
「嘘つきは泥棒の始まり」などと云われるが、それなら償うことができる、と感じる。
例えば、泥棒の原因が嘘で始まったとしても「窃盗罪」と云う罪を償えば「嘘」について言及されることはない。要するに、後に控えた「望ましくない結果」を導く要因としての「キッカケ」について危惧しているだけの言葉だ。
自分自身に対する嘘、つまり「望ましくない結果」を導く要因としての「キッカケ」は決して贖えない。否、贖いようがない、と感じる。
上の言葉に準えると、どうなるだろうか?
嘘つきは後ろめたさの始まり。
そんなところだろうか。
「嘘」はいけない。
「ついていい嘘」と「いけない嘘」と云うものに分岐するらしいが「自分自身に対する嘘」はいけない。
「威風堂々」を目指す者でなければ馬耳東風な戯言に過ぎないが、壮大な戯曲を奏でる「流離いの夢追い人の独白」と取っていただいて構わない。
我が魂の命ずるままに──。
これは「自分自身に対する嘘」を諌めるために自分自身に打ち付けた「楔」のひとつだ。つまり、自己欺瞞を封殺するのための必殺の呪文なのだ。
我、己に物申す!
感受性が嘘をつけと命じているのか?
それで逃げ切れるのか?
自分は自分自身を須らく制御すべきだ。
自分は自分自身に嘘をついてはいけない。
ただ、他人の嘘については片目を瞑ろう。
それが優しさのひとつだと感じるからだ。
俺は優しい男で在りたい。