実るほど
謙虚さを説いた代表的な諺。詠み人知らず。
稲穂は実れば実るほど、重みで穂先を垂れ下げてゆく。それは、丁度、人がお辞儀をしているようにも見える。
学識や徳行が深くなった人ほど謙虚になっていく、と云う意味で、力量が備わり、成功している時にこそ、謙虚に生きていきなさい、と云う戒めを表現した諺である。
踏まえて、独自リリックを刻む。
謙虚とは、無能者の振りをする酔狂であることを承知で譲歩する最大の寛容である。
或いは、その戯れ言の類いを懐中深く封印しようと努める忍耐の骨頂である。
つまりは、寛容と忍耐である、と。
例えば、
謙虚さを稲穂に喩える人で謙虚さを感じたことがない。皆一様に横柄だ。
多分、右へ倣え的発想から先のフレーズを好み、座右の銘として据えるのだろう。
稲穂が可哀想だ。
そう云った輩が据える謙虚さの定義には、こちらの指図に従え、と云うメタファーが込められている。要するに、口答えするな、と。
その輩が全知全能の神であったとしても、その輩の思想根幹が絶対的な正義であるのか否か。或いは、万人に共通する汎用性の高い正義であるのか否か。
甚だ疑問である。
真の謙虚とは、己の正義のためには首をも差し出すことを厭わない潔癖である。
独自のナルシシズムに基づいた謙虚さは、或る向きからすると、非常に厄介で扱いに困る代物である。
それを稀釈するための懐柔策は「敬意」である。
互いに敬意を持ち寄ることが出来たのならば、互いに疑うことのない信頼として、決して分つことのできない魂の鎖で結ばれることだろう。
これを「魂の連鎖反応」と呼ぶ。