余波の魅力

例えば、池に石を放ると、落下ポイントを中心に同心円の波紋が広がる。

石を放ることに特別な意味はない。

石を放ることに「目的・意思」はなく、「方法・手段」でもないとすると、「波紋が広がる」と云う現象は、すべて「余波」だと云える。

メインのシーンを紡いだ石は池に呑まれ、その姿を失う。そこに「使命」や「役割」を当てる向きもあろうが、さておき…

そんな風に捉えると、すべての事象は余すことなく「余波」である、と云える。


メインの時間軸で展開されているシーンは「大きなうねり」であり、そのうねりが個々に「波紋」を投げ掛け、それぞれに「余波」を与える。

 大きなうねり=潮流

だとすると、

 余波=影響

と云うことが透ける。

そこで初めて「余波の魅力」が浮上するのだが… その魅力とはいったい何だろうか──?


潮流に翻弄された、自身で制御不能な波紋に影響されるのではなく、それらの潮流・波紋を十二分に理解・認識した上で、それらとは異なる「余波」を放出しようとする「原動力」──。

噛み砕けば「モチベーションを育む心の動静」に美しさを感じるからなのでは? と、そんな風に思うのだ。

他に影響を及ぼすことを主眼とし、躍起になるのではなく、無意識配下…潜在意識配下…の指令なりが、結果、影響を与えていた、と云う、「計算された自然」と云おうか… うまい表現が見つからないのだが…

そう云った「曖昧な輪郭」…説明できない何か…が美しい、と感じるのだ。そして、「心地好さ」とは、きっとその辺りに隣接しているのだろうとも感じる。


説明不要な事柄に敢えて説明を試みる、と云うことは何とも無粋で蛇足に他ならないのだが、それらを百も承知で能書きを垂れてみる。

それこそが「余波の魅力」である、と感じたりもするのだ。

 余ったウェイヴを楽しむ余裕──。

余裕がないときにこそ、是非とも掲げたい。


我が魂の命ずるままに──。

*2008/06/21 北千住独房にて

___ spelt by vincent.