氷屋さん アンティークかき氷器 シルバー D-1394
パール金属
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1 欠陥あり?
5 らくらくカキ氷

不意に「虜」と云う字が想い出された。

「虜はかき氷器の中の魚」と云った女の子を想い出した。

虜と云う文字を象形文字に喩えるならば…虜と云う文字を形状として…フォルムとして捉えるならば、あながち当たらずとも遠からず。決して外れていない表現だ。

そんな形に見えなくもない。

僕はこう解釈する。
とらがしらの部分…漢字の上部…がハンドルで「七」の部分は氷を押さえる器具。彼女の解釈からすれば「男」の部分は氷に当たるだろう。

すると、どうだろう。なかなかどうして立派な「かき氷器」だ。

そして、「魚」に準えた部分には…本来は…「男」と云う文字が宛てがわれている。それを「魚」に置き換えたのだ。

とても面白い──云い切りに力強さすら感じさせる。

漢字の持つ本来のデザイン性の高さと、彼女の独自の解釈の深さに感銘を覚える。


かき氷器は氷を擦り減らしてかき氷を作る装置だ。

ハンドルをクルクルと廻してガリガリと氷を削る。装置の下には受け皿を置き、削られた氷を拾い集める。

削り切った氷の上にシロップなりを掛けて味付けし、それをスプーンでしゃくって胃の腑に収める。

今や懐かしい夏の風物詩のひとつであろう。

氷は無機物だが、それを有機物に置き換えれば、成る程、なかなかに残酷なシーンが展開される。血飛沫・スプラッタ系だ。

否、飽くまで「イメージの世界で」の話だが…

それを有機物である「魚」に見立てたのだ──根底に宿る残酷さは拭えない。

ただ、優しさからか、生殺与奪決定権行使の躊躇からか。いずれにしても彼女はハンドルを廻さないのだろう。

──眺めているだけだ。
黙ったまま見詰めているだけだ。

それはかき氷器に魚を設置したのは自分であるにも関わらず、その責任追及から逃れている、責任放棄しているようにも映る。或いは、設置したことすら忘れてしまっているのかも知れない。

いずれにしても、通常、そう捉える向きが多いだろう。

だが、僕にはその「根底の残酷さ」が理解できる。理解と云うより感じられる。

そして、逆に「健気さ」すら感じてしまうから不思議だ。
──設置したのにハンドルは廻さないのだ。そこに静寂のサディスティックさも顔を覗かせる。

同時に、僕にもそう云った性癖が在ることを否めない。

性癖とは殊更にセックスに限定した言い回しではない。「人間の本質」と云えば理解に容易いか──人は信じ難いほどの恐るべき残虐性を秘めているのだ。

僕が「然」と呼ぶもののひとつだ。平たく、在るものの存在を認めている。ただ、それだけだ。

存在の肯定──。

僕の説く「愛」の根源である。

僕は在る(とされている)ものはすべて認める。無いものも「無」と云う存在を肯定するからだ。

色即是空 空即是色

このマントラにも結び付く解釈だと感じている。


派生的に「認める」と「肯定」の違い。この違いは解るだろうか?

「許可と許容の違い」
「理解と解釈の違い」

それらにも通ずる個々の持つ概念解釈の違いだ。

理解の助力として「認める」に「許可」の「可」を加えてみる。

認可──。

「許可」にも通ずることだが、「広く、公然と」と云う意味合いが含まれる。要はパブリックである、と云うこと。

それを認めない少数派が居ようが居まいが、そんなことはどうでも宜しい、と。そう云う意味合いが含まれているのだ。

故に、僕は「肯定」と云う表現を好む。

そして「認めたら肯定せよ」と云う強烈な強要と、己に課す自虐的なまでの指令も附随する。

「許可と許容の違い」は脱線し過ぎてもアレなので、別の機会にでも綴りたい。


「理解と解釈の違い」は上述を踏まえれば瞬殺で紐解ける。

理解するが解釈には至らず。

この言葉がヒントになるだろう。

頭では解っているが、身体・精神などが受け入れていない。或いは、そう理解している、と云う立ち居振る舞いなど、それを対外的に表現するに至らない。うまく自分を制御できない、と。

上述の言葉はそう云った表現だ。

「生理的に受け付けない」もこれに含まれるかも知れない。要は「着信拒否」と云うことである。

自らが能動的にシャットアウト。扉は固く閉ざされる。開店休業である。

僕は…上述通り…同じ回路が働く。理解したら解釈せよ、と。

そして、過激な言い回しを敢えて綴ると、僕が云う「死ね」にはこう云った内容が含まれている。

やることがなくなったことを理解したならば潔く降りろ、と。そう云うことだ。

踏まえれば、頑張っている人が美しいのは「必然」だと云える。僕はなけなしでも頑張ってる人が好きだ。


僕はまだまだやることは沢山残っている、と感じている。こうした自作自演すらも「やること」のひとつだと認識している。

故に「高尚なマスターベーション」と云うネームプレートを掲げ、それに埋没し、勤しんでいる訳だ。

そう云った僕の動きなどを「勘違い」と捉える向きは僕にとってはどうでも宜しい。

人間は常に独りだ。孤独が群れをなして集合体を象っているだけだ。

要は、すべて「雰囲気」と云うこと。雰囲気を楽しめない輩は自身の知能なり前頭葉の発育不足なりを恨めば良いのだ。

他人の精神世界に干渉するつもりはない。僕は僕の精神世界に土足で侵入する。与えられた命を大事に扱うとは、そう云うことだ。

閑話休題。

「虜」と云う字を調べてみた。


とりこ 3 0 【▽虜/▼擒/〈俘虜〉】
〔取り子、の意〕
  1. 戦争で敵に捕らえられた者。いけどりになった人。捕虜。
  2. ある事に熱中して逃げ出せない状態になること。心を奪われること。また、そのような人。
    「恋の─」「欲望の─になる」


取り子、の意だそうだ。

何故、それが「とらがしらに男」と云う形状に至ったのか…その経緯は不明だが、兎にも角にも能動系。

その状態は「受動」であるにも関わらず、「能動」であると云う。「取る子」或いは「取っている子」と云うことだ。

「負けず嫌い」とも通ずる整合性の無さ──矛盾を感じる。

「負けず嫌い」とは二重否定であり、その状態をより正確に表現するならば、「勝てず嫌い」或いは「勝たず嫌い」と表すほうが正しいだろう。

何故なら「負けず嫌いの人」は負けることを何よりも嫌悪するのだ。故に、常勝無敗でなければ、そもそも表現設定の根底が可笑しい。本来の「負けず嫌い」とは、そう云うことだ。

負けず嫌いの人は常勝無敗。

「取り子」もまた然り。捕まっているのに取っている筈がない──「取られ子」或いは「囚われ子」。それが「正解」だろう。


人は捉えられないものに囚われてやまない。


僕は無学故、捉えられないものを追う。敢えて、それを選んでいるのかも知れない。

簡単に捉えられるものに興味は薄い。難攻不落にこそ食指が動く。

或る者は「Pursuer(追跡者)」と呼び、また或る者はそれを「探究心、求道心」と呼んだ。

いずれも、僕のいち要素であることに間違いない。

人は捉えられないものに囚われてやまない。

それでも僕はこのマントラを唱え続ける。

我が魂の命ずるままに──。


僕は君の虜になっている僕の虜だ。

___ spelt by vincent.

コメント (1)

vincent. 2007年7月27日(金) 15:14

このスペルの根幹。

 虜=かき氷器の中の魚

を前提にすると、

魚が「我々」で、かき氷器は「世界」である、と云える。

そして、設置した者は──誰でもない。

「残酷さ」と云うものを「被虐的現象」として捉え、或る意味「被害者側」的な表現をしたが、被害者・加害者の括りで云えば、我々は誰もが「被害者」だ。
そして、悩ましいことに「加害者」が居ない状況である。

関連エントリーとして「コラテラル」を追加したのはそう云ったベクトルでの「関連性」を云っているつもりだ。

生まれた瞬間から何かの巻き添えである、と。

ただ、この辺りの論旨・根幹はかのショーペンハウアーなりが既に解いている。悲観主義(ペシミズム)なりがそれに当たるだろう。

かき氷器に設置された我々は生を擦り切らせるまでハンドルを廻され続け──

悲観論など誰にでも幾らでも綴れることだと感じる。


ただ、やはり大きな違いは「感受性」。
この1点に尽きる。

感じない者には捉えられないし、従って、被弾する確率も極端に低くなる。平たく「他人の痛みや哀しみに鈍感である」と。

そして、その被弾しない者が多数派を形成し、「常識」と云う魔物を陣取り、高確率被弾者である少数派を隔離・排斥しようとする。
ただ、それだけのことだ。

僕は少数派の味方で在りたい。