崩落の馨り

「愛」と呼ばれるものに物質的質量があるのだとしたら、それは、やがて枯渇してしまうものなのだろうか?

いずれかが仄かな恋心を抱いたとする。その想いは日に日に増幅し、いつしか自分の中で収拾が付かなくなる。

 届けたい、この気持ち。
 受け取って欲しい、この想い。

 でも…

 届かないかも。伝わらないかも。
 構ってくれないかも。笑われるかも──。

相手の一挙手一投足に一喜一憂し、安心と不安とを交叉させ、覚束ない足取りで突き進み、それでも精一杯に注ごうとする。


理科の実験で用いるビーカーをイメージする。一方から一方へと液体を注ぐ作業。零さないように、慎重に、丁寧に──。

或いは、誰かに命じられているだけかも知れない。このように行いなさい、と。


『愛は惜しみなく与える』──そんな言葉を聞いたことがある。『愛は惜しみなく奪う』とも。

合理的な意味合いに換言すれば「ギブ&テイク」の関係。それをお互いにやり合うことを一般的には「愛し合う」などと呼んでいる。

与え、与えられ、奪い、奪われる。与え合い、奪い合う──強烈なギブ&テイクの連鎖だ。


先述のビーカーに準えれば、一方から一方へと液体を移し替えているだけ、とも云えよう。

その液体の量は決まった一定量だろう。そうでなければ溢れてしまい、そもそも移し替えることができない、と云うことが容易に想像できる。

この辺りに「いっぱいいっぱい」と呼ばれるものが隠れているようにも感じる。

 溢れそう。零れそう。
 どうしようもない。壊れそう。

ビーカーの大きさ自体の問題である場合もあるだろう。小さなビーカーいっぱいに満たされているにも関わらず、尚且つ、注ごうとすれば──見る向きに依れば「追い打ち」と取れなくもない。

いっぱいになった小さなビーカーを動かすことは難しい。しかし、それはそれで或る意味「完成形」。出来上がった状態だ。だから、余計な手を加えず、そっとしておく。。☆

ま。さておき、、笑

一方が与えると云うことは同時に奪われている、と云うことに他ならない。
一方が与えられると云うことは同時に奪っている、と云うことに他ならない。

成程。やはり偉大な先人があるのだな、と感じる。


冒頭の疑問。一方のビーカーから一方のビーカーへと何らかの液体を移し替えている作業に準えると、何らかの液体はやがて枯渇してしまうのだろうか? と云う自問である、と言い換えられるだろう。


いっぱいになった2つのビーカーをイメージする。なみなみと注がれている。表面張力ギリギリいっぱい。

いずれかが注げば、一方が溢れてしまう。その2つのビーカーは静かに並んでいるだけだ。

お互いが「そこに在る」と云うことを初めから知っているかのようにも映る。

無機質なビーカーが仲良く並んでいる。やがて訪れるビーカー自体の限界を静かに待っているかのように──。

やがて、時が来る。ガラスの決壊と共に姿を変えながら、ガラガラと崩落してゆく。

粉々に砕け散ったガラスの隙間から、洩れ出すように、溢れ出すように…

内容物をすべて辺りに放出してしまうと、痛々しい残骸を置き去りに姿を失う。ビーカーとしての役割を全うする。

果たして、そのとき、どんな馨りが立ち込めるのだろうか?


例えば、奇跡的な確率で崩落が同時だった場合、お互いの内容物はブレンドされ、お互いがお互いを浴びせ合いながら…

ラビリンス──よく解らない。




「愛」と呼ばれるものに物質的質量があるのだとしたら、それは、やがて枯渇してしまうものなのだろうか?


そもそも、よく解らないのだが…


そもそも枯渇してしまうようなものに「愛」と云う冠をつけてはならない。枯渇してしまうようなものと「愛」とを比較の壇上に上げるべきではない。

物質的質量があろうとなかろうと、「そこに在る」と云う概念は紛れもなく存在し、決して枯渇するものではない。

そんな自分の心の声を感じる。




崩落の馨り。

それは、きっと喩えようもなく甘美な馨りに違いない。そして、人は甘く美しいものに弱い。

とても穏やかな気分だ。


我が魂の命ずるままに──。


コメント

2005年12月25日21:22 vincent.

遅まきながら、メリークリスマス。。☆

___ spelt by vincent.