一度にすべてのことが同時に起こらないために時間はただ存在する。
アインシュタインの言葉。和訳されているので正確な語彙は分からないが、一見、極々平易な言葉だ。
ともすると、うん、そーだね。だから何? くらいの印象しか受けないはずなのだが、そこは流石に世紀の大天才が宣う言葉だ。何かないはずがない、と云う後光フィルターが掛かる。
「時間考」──である。
彼の言葉は物理学者らしく理路整然としているのだが、正しく解釈すると、彼の慈愛にも触れることができる。
彼は時間の存在証明として、まず物理現象をピックアップする。「すべてのこと」がそれに相当する。
無論、彼の云う通り、すべてのことは同時には起こらない。
何故なら、この証明には「同時」と云うタイムライン上に存在し得る現象について既に言及しており、且つ、もし、同時にすべてのことが起こり得るとするならば、すべてのことには始まりも終わりもない、つまりは「無」である、と云うことの証明に他ならないからだ。
そして、物理的に無ではないからこそ、我々は通念上、存在を認識している。
そう云った意味でも、彼の言葉は時間について的確に表現している、と云える。
すべてのこと、とは森羅万象のことだ。
般若心経的解釈で云うところの「色即是空、空即是色」、或いは、彼の提言である相対性理論的に解釈しても、「時間」と云う通念は余り意味を成さない。
ただ、現実世界を齷齪と蠢く我々にとっては、時間と云う観念に支配されている感が否めない。
「時間」を一般通念的に捉えたとき、「拘束」や「束縛」などといったイメージを持ちやすかったりする。「締め切り」や「納期」などは、その焦燥感の代表選手とも云えるだろう。
時間と云うのは煩しいもの。折り目正しく杓子定規で堅苦しい。時間は守らねばならない。時間厳守。規則正しく。それがルール、最低限のルール。二重三重に雁字絡め。嗚呼...
それら耳障りなご託宣を跳ね除けるための呪文が冒頭のフレーズなのだ。彼は通念上の解釈と形而上の概念を諭しつつ、同時に、我々に慈愛をも投げ掛ける。
一度にすべてのことが同時に起こらないために時間はただ存在する。
例えば、締め切りが同時だったら?
例えば、納期が同時だったら?
相手に事情を説明する暇もない。リスケや遅延、延滞と云う概念も軒並み総崩れだ。
例えば、始まりと終わりが同時だったら?
例えば、生まれる瞬間と死ぬ瞬間が同時だったら?
そんなことは有り得ない、とされている。コンマ何秒であれ、タイムディレイが存在する。
時間と云うものは、ただ、それらの事象を表現するためだけに存在しているのだ。故に、何らの拘束権はないのだ、と。
彼の頭脳明晰ぶりは知能指数によるものもさることながら、こうした人間的な慈愛から発生するものに思えてならない。
とてもインテリジェンスでジェントリーだ。
人生とは時間の消費に他ならない。時間は無限なのだが、個々に与えられた時間は有限なのだ。必要以上に優雅に過ごせないのが実情と云えるだろう。
辛いとき、苦しいとき、行き詰まったとき、この時間の観念が非常に煩わしく感じる瞬間がある。
そんなとき、彼の言葉と共に想起すべき呪文がある。
我が魂の命ずるままに──。
永遠の命と思って夢を持ち、
今日限りの命と思って生きるんだ。
ジェームス・ディーン