人は他人の中に僅かな優位性を見出したとき、はじめて他人に優しく在れる。
平たく云うと、優しい人は上から目線である、と云うことだ。
他人に何か施そうとするとき、
自身の優越感を満足させるために他人を利用する。
結果的に双方にメリットがあることだから、
それほど踏み込んで考えられることはないが、
やはり、終局は「自己満足」と云うことで落ち着く。
例えば、失恋のショックで打ちひしがれている人を見たとき、
「可哀想に」と云う「同情心」が生まれる。
そして、その激励に至っては「分かるよ。辛いよね」
などと理解を示したりもできる。
こんなとき、その言葉を受けた傷心の人は
「優しい人」などと云う安らぎを得たりするが、
よく考えてみれば、当事者でもない他人が
自身の傷心の意味や理由などを真に知り得るはずはないのだ。
要するに「知ったかぶり」と云うことだ。
「傷つけば傷ついた分だけ人に優しくできる」とは、
何度も傷心を繰り返し、都度、再生し、
その障壁を乗り越えた者だけが得られる優しさなのだ。
障壁を乗り越える──ここに、その優位性の根拠を置くのだ。
自負、自尊心なども顔を出す。
自身の中に見出す屈強性こそが優位性の根拠なのだ。
この優しさの奥に潜んだ優位性には「侮蔑」も含まれていたりする。
侮蔑と云えどもそれほど重くなく、バカにする程度と同等の、
云うなれば「軽視」と云うことだ。
何故、このような気持ちが生まれるのか?
それは、自身の過去を振り返り、自身にも似たような経験・経緯を発見し、
それを乗り越えた現在の自身を知っているからだ。
自身が既に乗り越えた事柄で躓いている他人の様を見て、
「ああ。そんなところで」と軽く軽蔑しているのだ。
──ここから更にスライドして「差別視」と云う大事に発展するのだ。
人間とは、本当に業の深い生き物である。
平等、平和を望む綺麗事の類いには、
この人間の業を解消するための方策が敷かれていない。
平等では何も動かないのだ。
高低差があるからこそ、高きから低きへ。
或いは、下克上という「逆流」が生まれるのだ。
そうして混濁した価値観の激流に揉まれながら
「自身の真実」と云う、救い難い自己との闘争を繰り返す。
自身の真実を知りたいのは自身において他はない。他人は飽くまで他人事なのだ。
つまり、自己満足度を高めるためだけに人は呼吸する、と云うことだ。
他人に優しく在りたいと望む者は、この自身の中に眠る最大の強欲を掌握せねばならない。
そして、自身以外はすべて他人である、と云うことを理解していなければならない。
要するに「お互い様」と云うことだ。
「上か下かで云ったら俺が上だ。そこら辺、分かるか?」
と、上目遣いでお伺いを立てる。
この矛盾の中に「真の優しさ」が眠っている。
___ spelt by vincent.


























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