「ご機嫌いかが?」
「あなたは?」
「宜しくないね」
「どうして?」
「君に逢えないからさ」
「君は何人いるの?」
「僕は独りだよ、いつでも──」
この会話から揺れ動く機微を汲み取れるだろうか?
──「二人称考」である。
冒頭シーン、これを平たく男女の会話として捉えてみる。
男は、君に逢えないから機嫌が宜しくない、と。字面を額面通りに受け取れば、そう云っているだけだが、その背景には君に逢えなくて寂しい、という気持ちがあり、更に潜ると、君に逢いたい、という切ない心情が隠されている。
要するに、センチメンタル・プロテクトということだ。
だが、この流れを受けた女の切り返しベクトルが微妙に異なる点に気付くだろうか?
ポイントは「君は何人いるの?」という問い掛け。更に「君」という「二人称」に絞り込まれる。
「君は何人いるの?」
「僕は独りだよ、いつでも──」
このやり取りは(この部分だけを切り取ると)極めて自然だが、ベクトルが噛み合っていない。女の心情をカッコ書きで補足すると氷解する。
「(あなたの云う)君は何人いるの?」
お分かりだろうか?
この問いに対する男の答えは的を射ていない。単に、寂しさを内包した自身の心情を優先させた回答に過ぎない訳だ。
呼称には「対」がある。
例えば、「私」に対する「あなた」、「僕」に対する「君」。
或いは、「俺」に対する「お前」、「アタイ」に対する「あんた」等々…
云うなれば「ふたりだけの世界」を構築する(と思われがちな)呼称群である。
これらの代名詞は、一人称(自分)と二人称(他人)で構成されている訳だが、この「二人称」が非常に厄介なのだ。解釈の違いで誤解・曲解の原因にもなり得る、と云えるだろう。歯車のズレはここから生じることが少なくない。
冒頭シーン、極々自然な会話に映るのだが、その実、内面ベクトルが交叉していないのだ。
男が向けた「君」とは女だけに向けられたものだが、女が問い掛けた「君」とは男に向けられたものではない。
女の心情の奥底には、男に対する疑惑と嫉妬と寂しさが含まれているのだ。
「私以外の誰にでもそんなこと云っているんでしょ?」と──。
これが「二人称考」の全貌だ。
本来、自分以外を特定する代名詞に「単数形」は有り得ないのだ。にも関わらず、それでも人は「二人称単数形」を捏造する。自ら幻想を創出する。そうして「一人称単数形」の支えなり、原動力なりを持とうとするのだ。
これらの心理を踏まえると、二人称には「単数形」と「複数形」の2種類ある、ということに気付かされる。
ここでひとつ、鐘を鳴らしてみる。
二人称単数形には真摯に向き合いたい。
二人称複数形に埋もれないためにも──。
自を愛でるメソッドとして他を愛でる。
Love method so cool.
少し穿った角度、これを「計算高い」と捉える向きはキャパが狭い。
計算しているようで計算していない。
計算を感じさせない補い余る思いやり。
それがクールな愛のメソッド。
僕はそんな風に感じる。
*2009.04.01・草稿
コメント (1)
ここから「彼氏・彼女」と云う
「三人称複数形」について派生したりもするのだが…
それはまた別の機会にでも☆(´∀`*)