表現考

表現──。

例えば、黒板に爪を立て、引っ掻く。
何とも不快な不協和音が響く。

文字だけでも、そのイメージを想起させる。

強烈に厭な印象しか残らないこんな表現。

「印象づける」と云うことが理屈ではないことが窺える一例だ。

踏まえると…

表現手段の違いには取り立てて特異性などはなく、また、その違いがもたらす「結果」についても一定の「解」を導き出すための方程式なりがない、

と云うことが見える筈だ。

要は「理屈抜き」と云うこと。

面白いものは面白く、つまらないものはつまらない。ただ、それだけのこと。

「因果律」に支配されていない厳粛たる「結果」のみが横たわる。

故に、存在しているだけで「表現」しているのだ。

──「満身創意」とは、こう云うこと。


存在している以上、表現手段が定まらずとも常に「表現」しているのだ。

視認性の高い表現や理解に平易な表現など。

それが、或るいっとき、いち時流のムーブメントを司ったりもするが、根底、無関係。

そんな次元には、そもそも居ない。


時流に迎合することは容易だが、それを継続することに美徳を見出せない。

ここに「継続は力なり」のアンチテーゼを見る。

故に、「我が魂の命ずるままに」と云うマントラを唱える。要は「臨機応変」と云うことだ。

感受性センサーが傍受したものに如何に忠実に従うことができるか、と云う命題。

「自縄自縛」の「前段階」と云える。

──それが「思考」と呼ばれる段階である。


「沈思黙考」

この四文字熟語の中に「沈黙」が挟まれている。なかなかに趣き深い。

そして、

 沈む=sink
 考える=think

英語に変換すると、韻を踏んでいたりする。飽くまで「カタカナ」ベースではあるが…


──このように「表現」について、脳細胞を駆使して切り刻む様が愉快でならない。


脳内会議はとても静かで非常にうるさい。
「静寂の爆音」と云うフレーズがチラつく。

___ spelt by vincent.