例えば、禁欲と云うマスターベーションを据えた時点でストイックと云う定義から外れる。
ストイシズムを貫きたい、満足させたい、と云う新たな「欲」が既に芽生えているからだ。
一事が万事。定義を敷けば敷くほどその定義から遠離る、と云う矛盾。
論理的整合性など、パラドックスの前では為す術もなく、悉く駆逐されるのだ。
つまりは「全滅」と云うことである。
未定義の魅力。
定義を据えないことこそが、何よりも定義を重んじる、と云う実践である。
ではあるのだが、未定義が故に些末なことにも翻弄され易くなる、と云う「必然の副産物」を内包する。
故に、どうにか輪郭を象ろうと、覚束無い「解」を以て型に嵌めたがるのだ。
どうりで信号を守っているほうが、より楽ちんな訳だ。皆が一様に頷く、明瞭と思しき定義に疑問を持つ者は少ない。
無論「多数決の嘘」もここに含まれている訳だが…
それらを踏まえると、「明瞭」に確固たる意味などない、と云うことを知る。詰まる所「より鮮明」と錯覚しているだけなのだ。
「強烈な思い込み」である。
このように、いち側面から様々な側面を暴いてみると、乾いた一陣の風が舞う──。
生きるとは輪郭を象る作業である。