*2017.06.25・草稿
]]>優位性に基づいた優しさは、真のS気質でないと持続しない。
真の優しさとは、生殺与奪を完全に掌握した者のみが放てる。
*2008/07/24 臨海隔離施設にて
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不意に「虜」と云う字が想い出された。
「虜はかき氷器の中の魚」と云った女の子を想い出した。
行為に溶けるということは、そうしてしまう、ということです。
人間は、自分で決めて働いているのではなくて、環境に動かされている。
こんなフレーズ。
天動説や地動説、果ては操り人形の類いまで僕の頭の中では様々な事柄が狂喜乱舞したのだが…
能動的(であると思われている)行為ですら、実は受動的行為なのだ、と諭されたようにも感じる。一様に限りなく「意志薄弱」である、と。
そして、少し脱線して…
先天的な「S」は存在し得ない。「生まれた」と云う、ただそれだけで、そのこと自体、事実が既に「M」なのだ、と。
vincent. SM論にまた拍車が掛かってくるのだ。
それらを踏まえて、的確な「ナビゲーション・デザイン」を根底に、有効な「レイアウト・デザイン」を以て、一元から二元へと意思を伝達する。
『わたしからあなたへ…☆』──そんな「コミュニケーション・デザイン」にも通ずると感じる。
主観・客観をうまく取り入れ…僕はよく「俯瞰しろ」と云う言葉を使う…グローバルとローカルとを双方のベクトルを捉えよ、と。
そうすることによって「自然」と云う最も適宜な「必然」が導き出される。
…敢えて、受動態で括ってみた。
深澤氏(前述の本の著者)は、こうも綴っている。
僕がこれを考えたように見えるといわれますが、それは僕が考えたわけではなくて、そうなるべき姿であったということの結果だと思います。
僕の好きな語彙のオンパレードである。
これのタイトルは「考えない(without thought)」──タイトルから悶絶である。
「そうなるべき姿」──僕は「然」と云っているが、これがすべての「本質」である。
その本質を如何にうまく伝えるか。
ナビゲーション・デザインに関わらず、すべての道に通ずる命題だと感じる。
それに対して自問自答を繰り広げ、答えのない迷宮を延々と彷徨っているのが、我々「人間」と云うオブジェクトの「然」である。
故に、「生あるうちは救われない」と云い切るのだ。「救われたい」と願うこと、望むこと、それらすべての「願望」を棄てよ──絶望せよ、と。
そうすることによって浮上してくる「新たなる然」。
それは「新たなる」と云う「錯覚」を覚えたりするが、紛れもなく、そもそも保有していた「然」である。無いものは決して顕われないのだ。
それを僕は「ポテンシャルの覚醒」と呼ぶ。
「そうなるべき姿」とは「本来の姿」。
そこへ帰ってゆくのに躍起になっているのだろう。
生を継続するにあたり、否が応にも…要・不要を問わず…某かの「プラス」が蓄積されてゆく。
要・不要の品定めを吟味し、不要(と思われる)要素を思い切って棄てる。
僕は「マイナスの美学」と呼んでいるが、その根幹は「回帰願望」なのだろうか?
*脳内浮遊物を繋ぎ止めるものとして
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水晶玉──のようなもの。
眼の前にそれが在る。
或いは、眼の前ではないのかも知れない。
優しく包み込んでいる感じ。
透明で何も映っていない。
だが、全てが見える。物事の本質が──。
透明だからこそ、全てが透き通って見える。
何処で手に入れたのかは分からない。
或いは、手に入れていないのかも知れない。
だが、確実に存在し、脳内エピキュリズムを心地好く刺激する。
そして、あらゆる予兆なりを確実に告げてくれる。
驚くほど単純な構造で構成されていることに気付く。
願わくば、片隅に据えられたし。
透明だから邪魔にはなるまい──。
CORE again...
傾ぐバランスに愉悦を覚えながら──。
*自コメントより抜粋
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今まで 何度となく 辞世を決し
それでも おめおめと 生きてきた
何か 伝われば それで良い
大事な人に 伝われば それで良い
心配してくれた人 ありがとう
そして ごめんなさい
自身の魂の命ずるままに。。
俺の我儘を再開することを
自身の誇りと恥に乗せて──
if (cause) {
result = true;
}
else if (!cause) {
result = false;
}
else {
cause = null;
}
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努力とは凡人の希望である]]>
by 立川談士